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2020年子ども祝福会メッセージ「子どもたちは矢、私たちは勇士」

更新日:2020年11月16日



聖書における子供の扱い

 今日は「子ども祝福会」と言うことで聖書から「子ども」について学んでいきたいと思います。

金曜日に一つのトピックについて話し合う時間をZOOM上で持っていますが、ちょうどこの前、子どもについて考える時間を持ちました。そこで少し話させていただきましたが、武田邦彦さんがYOUTUBE「家物語4:家庭と子供の幼児編」と言う動画の中で「子どもは獣か?神か?」と言うテーマを話されていました。

 武田さんは西洋かぶれの日本人を「ヨーロッパ病」にかかった日本人と嫌っているので意見が偏っている点もあると思いますが、良くも悪くも考えるきっかけを与えて下さります。

例えば、その中で、「抱き癖が付くといけないとか言う人がいますが、抱き癖をつかないように育てられた多くの子どもが自閉症になった」、それで「抱き癖を付けてはいけないと主張していた教授は責任をとって大学を辞めた」と話していました。赤ちゃんは泣く時に抱きしめられることで、心に安心を得るのに、それを得られなかったことが傷となり、自閉症になることがあるそうです。自閉症にも先天的、後天的、色々な要素があるのでそれだけが原因ではないでしょうが、確かに幼少期に心が満たされる経験を積むことは、自分も非常に大切だと思います。

その動画の中で武田さんは

「親は人間だけど、子どもは神の子だ。神様から授かった子どもだから子どもの方が上だと言う考えが日本にはあるんですね」

「それに対して例えばイギリスを例にあげますと、子どもは野獣である、つまり人間にまだなっていない。だから鞭で打ったり、しばりつけたりして子供を教育するんだと言う基本思想がある」

と話していました。

子どもは神の子なのか?それとも野獣なのでしょうか?

皆さんはどう考えますか?

(子供と大人に関してだけでなく、宣教に関しても同じ→「西洋には優れた文明があるから、未開の野蛮人の文明を捨てさせなければ」と言う十字軍的考えの宣教があった。残念ながら今でもそういうベースを持っている宣教師もいるかも知れません。または私たちもクリスチャンではない人たちの文化に対して、聖書の価値観がないから野獣のようだと切り捨ててしまう所がないかチェックする必要がありますね。そこにある神様の似姿を探し、同時に罪によって失われている部分に福音を届けていきましょう。)

自分は、子どもは神の子なのか?それとも野獣なのか?どちらもある意味正解で、どちらの思想になるかは、人間の罪の性質に目を留めるか?それとも神の形につくられたと言うことに目を留めるかだと思います。

・獣

聖書はアダムによって、すべての人間は生まれながらに罪を持っていること、原罪について教えています。ですから生れたばかりの子供にも罪の性質があります。アダムから脈々と受け継がれている原罪の影響を避けることは出来ません。実際、幼い子供でも嘘をついたり、知恵を働かせて大人をコントロールしようとしたりします。

自分たちも、つむちゃんが少し大きくなって来た時、人間の罪の性質に気を付けて、泣くことで大人をコントロールするくせをつけないように気をつけてきました。育て方によっては、泣けば大人はいう事を聞いてくれると覚えてしまう子供もいます。確かに人は幼くても、罪の方へ罪の方へ流れる習性があります。

ですから、クリスチャンの中には、子どもは生まれた時から罪の影響下にあり、獣のようだからきちんとしつけをしなければならないと言う考え方を持つ人も確かにいます。

聖書の箴言には

[箴言 13:24]

むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。

[箴言 23:13,14]

子どもを懲らしめることを差し控えてはならない。むちで打っても、死ぬことはない。

あなたがむちでその子を打つなら、その子のいのちをよみから救い出すことができる。

と子どもをむち打ってでも「懲らしめる」ことを教えています。羊飼いが羊を鞭打つとき、そっちの方に行ってはいけないと教えるために鞭打ちます。

同じようにいのちに関わることについては、悪い事は悪いと大人が示さなければならないと教えているのです。マンションの7階から落ちそうな子どもがいて放っておくのが愛でしょうか? また、左右を確認もせずに歩道から車道に飛び出そうとした子どもを放っておく親はいないでしょう?いのちに関わる行動について口で説明する時間はありません。大切に思うからこそ、いのちに関わる行動に対して懲らしめる必要があるのです。(つむちゃんの餅の例)

ただここで注意しなければならないのは、果たして親の方が優れているのか?と考えることです。親は完璧な存在で罪の影響はないのでしょうか?そんなことは決してありません。

何が正しいことで、何が正しくないことか分からない子供に、正しさを教えるため、しつけの必要はあります、しかし、自分も同じく間違える可能性がある罪人であることを覚えておく必要があるのではないでしょうか。

 私たちは自分も間違えることを覚えて、「しつけ」するよりも「支援する」気持ちを持つことが大切!!です。それを踏まえて、今日の聖書箇所を読んでいきましょう。

聖書が教える「子ども」

[詩篇 127:3]

見よ 子どもたちは主の賜物 胎の実は報酬。

 ⇒子供は賜物、つまりプレゼントであると聖書は教えています。子供は親の所有物ではなく、神様からのプレゼントです。日本でも昔は「子は授かりもの」と言われていました。今でも時々用いられます。私たちは神様が与えて下さったプレゼントである子どもを預かっている気持ちを持って大切にするのです。

 ここから子どもについて学べることは第一のポイントは「①子どもたちはプレゼント」と言うことです。プレゼントですから「ありがとう」と感謝して受け取りましょう。

 「主の賜物」

子どもたちはプレゼントです。プレゼントに対して文句を言う行為は、プレゼントをくれた人に文句を言うことですね。子どもたちは「主の賜物」、神様からのプレゼントと言うことを考えると、子どもたちに文句を言うと言うことは、神様に対して文句をいう事です。

 (もうちょっとお利口さんにしてくれたら、あの子はあんなにお利口さんなのに。もっと元気に他の子どもと遊んでくれる子だったら。もっと親のいう事には素直に従う子なら。男の子だったら。女の子だったら。)

 主の賜物に文句を言うということは神様に対して文句を言うことだと覚えておかなければなりません。

二つ目のポイントは「②子どもたちは神様からのプレゼント」と言うことです。

 またここでは「子どもたちは」と複数形で書かれています。この詩篇は

[詩篇 127:1]

主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。

と始まっているように、家について、そして町について教えています。家が集まって町になります。昔はある家の子どもであっても、その町の子どもとして町内で大切にされていました。過疎化して子どもたちが少ない町では、今でもそういう習慣があるかも知れません。

 家が集まった集合体が町であるように、私たち神の家が集まった集合体が教会です。

第三のポイントは「③子どもたちは家だけでなく家の集合体である町への、私たちにとっては教会へのプレゼント」ということです。なので「子どもたちは」と複数形で書かれています。

 本来、教会でも一人一人の「子どもたち」を神様が教会に与えて下さったプレゼントとして、大切に支援していかなくてはいけないのです。自分の子どもがいてもいなくても、自分には関係ないと言う態度ではいけませんね。

 さて、今読んだ詩篇127:3の続きは何と書かれているでしょうか?続けて読んでみましょう。

続き

[詩篇 127:4]

若いときの子どもたちは 実に 勇士の手にある矢のようだ。

 ここでは「子ども」=「矢」であると教えています。敵を倒す矢、遠くから獲物を仕留める「矢」、矢は目標に向かって突き進んでいきます。

しかし、矢そのものが曲がっていたり、矢羽がきちんと手入れされていなければ、うまく回転せず真っ直ぐ飛びません。また的まで飛んだとしても矢尻がとがっていなければ的に刺さりません。

矢がきちんと手入れされていなければ、的に向かって飛ぶことも、的に刺さることも出来ないように、人生と言う荒波の中で、矢である子どもたちが敵を倒し、人生の目的目指して真っ直ぐ進めるだけの訓練をしておかなければなりません。

矢というものは、手元を離れるために存在しています。矢を大切に、大切に棚に飾っておいても敵を仕留めることは出来ないでしょう。神様からのプレゼントだからと大切に、大切にすることは良いですが、大切にするあまりに自分の手元から離れていくことを恐れて共依存になってしまってはいけません。子どもたちはいずれ手元を離れて的に向かって飛んでいく矢のようであることを忘れてはいけません。矢が的に向かって飛んでいくように、子どもたちはいずれ的に向かって飛んでいく、その時のために私たちは、子どもたちが成長するように大切に支援するのです。

ポイント①子どもは矢のように「手元を離れ、敵を倒す」力がある。

「矢は手元を離れ、敵を倒す」ために飛んでいきます。しかし、考えて見て下さい、矢だけでは敵を倒すことは出来ません。矢は人の手で弓を用いて放たれなければ、的に当たることも、敵を倒すことも出来ないのです。子どもには矢のように敵を倒す力があります。しかし、矢を放つ人が必要です。敵を倒す子どもたちの力を引き出すのは、近くにいる大人なのです。

矢である「子どもには敵を倒す力がある」しかし「それを引き出すのは近くにいる大人」であることを忘れないでください。

ポイント②「その力を引き出すのは近くにいる大人が必要である」

 では、その必要とされる大人の役割は何でしょうか?

先ほど1節で「【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」と読みました。家の集合体である町、主が守っている家の集合体である教会、私たち大人はそこで一人一人が見張りとして神経を研ぎ澄ませて、敵が来ないか見張る必要があります。敵が離れている時には矢を放つことは出来ます。しかし、敵がべったり引っ付いていたらどうでしょうか?矢の強みを生かすことは出来ません。そんな状態になってしまってから矢を放とうとしても遅いのです。敵に接近されて、矢を放てない状態と言うのは、大人が敵に気付くことが出来ずに敵が近づくのを許してしまい、矢の能力を引き出せないように、子供の能力を引き出せない状態です。それは矢の能力のせいではなく、見張りの怠慢です。

私たちに与えられている役割は、主が守る町の「見張り」として敵が近づいていないか見張ることです。敵が近づいてどうしようもなくなる前に矢を放って敵を倒す必要があるのです。

ここで、子どもたちは、ただの矢ではなく、「勇士の手にある矢」だと言われています。戦いの中で今にも敵に向かって飛んでいく矢です。どこかに飛んで行って無駄になる矢ではなく、勇士の手にある矢、つまり、はっきりと目標に向かって飛んでいく矢なのです。

 では勇士とは誰のことでしょうか?

私たちは勇士!!

[ヨエル書 3:9-11]

「国々の間で、こう叫べ。聖戦を布告せよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち直せ。弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ。周りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。──主よ、あなたの勇士たちを下らせてください──

→私たちも「私は勇士だ!!」と言わなければいけません。いかに、子どもたちと言う矢に能力があって素晴らしい矢だったとしても、それを敵に向かって射る私たちが「でもぉ、戦い怖いしぃ、勇士じゃないしぃ、そんな力無いしぃ」と言って矢を射ることがなければ、その矢は能力を発揮することがありません。私たちは弱くても「私は主にあって勇士です!!」と宣言しなければなりません。

では、神様が望む勇士の姿はどんな姿でしょうか?

[詩篇 103:20]

主をほめたたえよ 主の御使いたちよ。みことばの声に聞き従い みことばを行う 力ある勇士たちよ。

神様が求める勇士は「みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある」勇士です。力が強いとか、剣の扱いがうまいとか、知識があるとか、そういったことを求められるのではありません。神様の声に聞き従い、神様の言葉を行なう力がある勇士が求められており、その勇士に対して「主をほめたたえよ」と命令しているのです。

 私たちが「みことばを行なう力がある勇士」として、御言葉に従っていれば、子どもたちもその姿を見て、真っ直ぐ飛ぶ矢として成長していくのです。

 「子どもたちを愛する」こと=「子どもたちの良い見本として生きる」ことです。私たちに求められていることは、「みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある勇士」として見本を示していくことなのですね。



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