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「あなたは問題解決のために何を見る?」



2020年10月04日

林 健二 牧師(ケンケン)

2017年訳 創世記42:1−9

ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」

さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」

そこで、ヨセフの十人の兄弟は、穀物を買うためにエジプトに下って行った。

しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。

こうしてイスラエルの息子たちは、人々に混じって、穀物を買いにやって来た。カナンの地に飢饉が起こったからである。

 ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。

ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」

ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。

かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」


・問題解決のために何を見る?

ヨセフがパロの夢を解き明かした通りに、豊作の七年の後、エジプト全土が飢饉に見舞われました。ヤコブたちのいたカナンの地でも飢饉で食べるのものが無くなりました。

ラバンと一緒にいたころのヤコブは、何が得意だったか覚えていますか?家畜を飼うことが得意でしたね。子どもたちが出来た後も、

創世記37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。

とあるように、ヤコブ一家は遊牧民でした。家畜を飼い、その毛を売って生計を立てていたのです。しかし、エジプト全土に七年物大飢饉が来ていたので、家畜を育てるのも大変ですし、いかに家畜の毛を売ろうとしても買ってくれる人がいなければ、食べ物を手に入れることは出来ません。カナンの地に穀物が無ければ、交換することも出来ません。食べるものが無ければ飢え死にするしかありません。

そういう自分の力ではどうしようもない、非常に大きな問題が起きた時、私達はどうするでしょうか?1節を見て下さい。

42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」

ここで使われている「知って」と「見合って」はどちらも

har(ラーハ):と言う単語で、英語のSEEのように、「見る、理解する」と言う意味の動詞です。

ヤコブは家畜の毛を売る販売ルートなど商人の情報網を使ったのでしょう。カナンの地は飢饉で食べるものがなくなったけど、「エジプトに穀物がある」と言うことを知りました。穀物があることを見た、理解しました。

それに対して、ヤコブの息子たち、ヨセフの兄弟たちは何を見ましたか?

「互いに顔を見合わせてい」たのです。つまり、どうしようどうしよう、家畜のえさを減らそう、お前が食べる分を減らせ、いやいや、お前が…と互いに顔を見合わせてあれこれ相談、もしくは責任を押し付け合っていました。

兄弟たちは互いをhar(ラーハ)見ました。父ヤコブはエジプトをhar(ラーハ)見ました。

つまり、兄弟たちは内側を見てあれこれ解決を探し、父ヤコブは外に解決を求めました。

・何を見て生きるのか?


小さな視点で解決を見出そうとあれこれ頑張っても、周りの状況、ここでは飢饉がそれを許さない→大きな視点で見る必要がある。

本当に見るべきものは????

ヤコブの息子たちは内側に解決を求めた。

ヤコブは内側では解決しきれないと外に目を向けた。

では、ヨセフは何を見たのでしょうか?

7節にヨセフがhar(ラーハ)見たシーンが登場します。

42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」

ヨセフは兄弟たちを見ての「見て」です。ここにもhar(ラーハ)が用いられています。ヨセフは兄弟たちを「見」ました。

しかし、ちょっと考えてみて下さい。

当時のヨセフはエジプトの大統領のようなポジションでしたよね?6節には、「ヨセフはこの国の権力者であり」とも書かれています。

辺境の地からやって来たヨセフの兄弟たちが、いきなり、大統領のような立場のヨセフの前に通されるっておかしくないでしょうか?

いきなり通されて、ヨセフが兄弟たちを「見る」と言うのは、考えられないことではないでしょうか?日本は島国なので想像しづらいですが、例えば大飢饉によって食べるものがなくなったメキシコの難民がアメリカを訪ねて、いきなりトランプさんの前に出るような状況です。

どうしてヨセフは兄弟たちを「見る」ことが出来たのでしょうか?

恐らく、ヨセフは普段からもし兄弟たちが訪ねてきたら、「見る」ことが出来るように、作戦を立てていたのでしょう。6節には

42:6 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。

と、エジプトの権力者であると同時に、穀物を売る者であったと書かれています。ヨセフは穀物を売る者の立場を利用して、もしカナン地方から穀物を買いに来る者があったら自分が直接会って交渉すると部下たちに命じていたのでしょう。

そうしてようやくヨセフは兄弟たちを「見る」ことが出来たのです。

42:8 ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。

ヨセフはずっと兄弟たちを待っていました。ですから当然、兄弟だと分かります。しかし、兄弟たちは目の前に立つ権力者がヨセフであるなんて思いもしなかったでしょう。「彼らにはヨセフだとわかりません」でした。

ずっと、見よう見ようと計画していた兄弟たちを、ようやく見ることが出来たヨセフは、どうなったでしょう?


・思い出して


42:9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」

ヨセフはかつて神様に見させられた夢を思い出しました。

この「夢を思い出して」で使われている

rkz(ザカー):思い出す

は、創世記の中でいつも神様を主語として用いられている言葉です。

「神様が契約を心に留める」とか

「アブラハムを覚えておられる」とか

神様が契約を思い出す、人を思い出すシーンで用いられています。

この「rkz(ザカー):思い出す」が創世記の中で、人を主語にして用いられているのはヨセフの物語の中だけです。夢を解き明かしたヨセフが「思い出して下さい」と言ったのに、献酌官長が「思い出さなかった」と言うシーンで何度も使われています。そして、今日の箇所で、兄弟たちをhar(ラーハ)見たヨセフは、彼らについて見た夢をrkz(ザカー)思い出したのです。

・夢


原文ではこの「夢」は複数形で書かれています。創世記の37章でヨセフは二つの夢を見ました。

一つ目が6-7節です。

37:6 ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。

37:7 見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」

これは兄弟たちがヨセフを伏し拝むと言う意味でした。

もう一つの夢は37:9です。

37:9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。

11人の兄弟とお父さん、お母さんまでがヨセフを伏し拝むと言う夢です。ヨセフはこの二つの夢のことを思い出しました。

そこで気付くのです。夢は11人の兄弟とお父さん、お母さんまでがヨセフを伏し拝むと言う内容だったのに、そこには10人の兄弟しかいない、それにお父さんお母さんもそこにいないのです。

「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して」あの夢はまだ完成していないと気付くのです。

兄弟たちが自分を拝んでいる姿を見たら、「夢と大体同じだなぁ」と思うでしょう。しかし、ヨセフは「大体同じ」、雰囲気同じで、満足しませんでした。神様の計画と完全に同じではないので、神様の計画はまだ完成していないと気づき、この後、11人目の兄弟であるベニヤミンもエジプトに来させるように策を寝るのです。

⇒雰囲気合っていればよいと言う現代の風潮×

ヨセフの見た夢では、兄弟11人の束がヨセフの束にお辞儀をしました。しかし、そこには10人しかいない。なぜ、そこにベニヤミンがいないのか?もう死んでしまったのか?

もしかして、かつて自分が父から偏愛されていたように、ベニヤミンも自分がいなくなった後、父から偏愛され、ベニヤミンだけ依怙贔屓で来なかったのか?いや、もしかしたら自分のように他の兄弟から妬まれて途中で売られてしまったのではないだろうか?ヨセフの中に確認しなければならないことが増えていきます。

更に、いなくなった自分のことをどう思っているのか?父は無事なのか?ヨセフは色々知りたかったでしょう。

兄弟たちに「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがっているのだ」と言うヨセフ自身が彼らを偵察し、様子を伺い、実は情報を引き出そうとしているのです。このやり取りは次回に続きますが、このヨセフの神様の約束に対する態度から学びましょう。

兄弟たち→内側に解決を求めた

父ヤコブ→外に解決を求めた

ヨセフ→夢を思い出した

自分の力では越えられない、大きな問題にぶつかった時、内側に解決を見出そうとしますか?外側に解決を見出そうとしますか?努力自体は尊いですが、それでも解決できそうにない時、エジプト全土をおそった大飢饉のように、自分たちの限界をはるかに超えている時、ヨセフが神様に見せられた夢を思い出したように、私たちは神様の約束を思い出さなければなりません。

内側でも外側でもなく、一番大切なのは「神様の約束を思い出すこと」です。

ただし、ただ思い出すだけではいけません。

①正確に思い出す

②信じて行動する

ヨセフが夢を大体こんな感じと覚えていたのではなく、11人のはずなのに10人しかいない、父、母もいるはずなのに父、母がいないと気づいたように、私達も神様の約束を大体こんな感じ、雰囲気合っていればよいと言うモノではなく、正確に思い出せるようにしておかなければなりません。

また、ヨセフはただ夢を思い出しただけでなく、夢と違う部分があったのでまだ完成していないと気づき、完成に近づくようにベニヤミンがエジプトに来て11人がおじぎをするようにしようとしましたね。

以前に使徒の働きを学んだ時も、パウロは、ローマへ行って証すると言う神様の約束を信じていましたが、自分でもローマへ行けるようにひたすら努力を重ねました。人事を尽くして天命を待つのではなく、天命を信じて人事を尽くすパウロの姿を学びましたね。

同じように私達も神様の約束を思い出したなら、その約束に向かって本気で向かうべきなのです。

私達は何を見るのか?何を理解するべきか?

もし、患難があったらあなたは何に目を留めますか?

Ⅱコリント

4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

ここで、「見えないもの」とは15節、17節に書かれている「神の栄光」、「永遠の栄光」です。問題にぶつかった時、目に見えない神様の約束を思い出し、神様の約束を信じて勇気をもって行動を起こす時、神様に栄光を帰すことになるのです。

私達も、いつまでも続く「神の栄光」、「永遠の栄光」を求めて生きていきましょう。



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